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ずっと待ってくれていたその人に「ただいま。」 [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

きのうのお話の続きです。

*****************

もう
ふるさとに戻っても帰るところがなくなってしまった
70歳過ぎの男性。

彼は
青年の声掛けに
悲しく答えました。
 「妻は、なくなりました。
  家族は、いません。」

青年はもっと悲しくなりました。
そしてこう言いました。
 「たとえば、古い親友とか、
  お友達はどうですか?
  そんな
  あなたを心配してくれている人に
  ただいまって言ってあげてくださいな。」

 その人は、さらにつぶやきました。
 「わたしを知っている人はもうほとんどいなくなりました。
  少しいても
  厄介者にされるだけで・・・・」

 青年は、もっともっと悲しくなりました。
 そしてこう言いました。
「いいえ。必ずおられるはずですよ。
 あなたを待ってくれてる人。
 その人のために
 元気なお顔を見せてあげてくださいよ。」

その人は
もう何も言えず、
うつむきました。

青年は、やさしく言葉を加えました。

「必ずあなたを待っている人がいるはずですよ。
 必ず。
 どんな人にも
 待っている人がいるんですよ。」

その人はうつむいたまま
小さな声で聞きかえしました。
 「それは誰ですか?」

きっと
(そんな人はいるわけはない。
いたら、誰だか教えてほしい)
という気持ちだったんでしょうね。 


 
青年は
その人の問いかけに
しずかに
おだやかに
でも
確信に満ちた声で
こう答えました。





「その人はね、
 あなた自身ですよ。」


その人はうつむいた頭を少し上げて
驚きました。
「え?」



青年は、穏やかにこう続けました。
「世界中のだれもがあなたのことを厄介に思っても
 世界中のだれもがあなたのことを裏切ろうとも

 絶対に裏切らない
 絶対に嫌いにならない人がいるんです。

 それはあなた自身ですよ。

 あなた自身に決して背を向けないでくださいね。


 あなたをどんな時も大切にするその人を
 裏切ることのないように
 傷つけることのないように、

(つまり自分自身を責めるあまりに
 自分で自分の命を絶つことのないように)
 
 あなた自身に
 喜んで「ただいま」といってほしいんです。

 そのとき
 あなたをずっと静かに待っていたその人は

 あなたをいとおしく抱きしめるでしょう。

 だから今日も明日も
 元気でいてほしいんです。」


うつむいていたその人は
この言葉で胸を打たれ、

泣き崩れました。

「言います。
言います。

私をずっと待ってくれていた人。
私自身に

ただいま。」

もう
涙が止まらなかったそうです。

その人は
この国に帰って
住職さんのお手伝いをするようになり、
「教戒師」になって、あちこちでこの話をしています。

 「その青年は、私よりも何十歳も若かったけれど、
 きっと、仏様が青年の姿でお話しくださったんですね。

 今でもくっきり覚えています。

 全ての人
 一人一人の中に
 必ず仏様がおられるというのが
 お釈迦様の教えならば、

 私たちの中にある私自身
 それは仏様その方自身なのかもしれません。

 その仏様は
 どんなときも
 どんな場所でも
 一緒にいて下さって

 わたしたちが
 その胸に飛び込んでくる時を
 ずっとずっと待ってくださってるんですね。」

 
その教戒師さんのお話は
本当に素晴らしいと思いました。

日々の暮らしや仕事の中で
たとえ心が疲れ
自分が嫌いになっても

今自分がここにいること
それ自体が立派な愛であること

それを確信づけてくれるお話だと思います。


あらためて
お伝えしましょう。


「生きるってことは、
愛だよ。

愛に
格好も
理由も
あるもんか。」

この話を書き終わって
また胸がいっぱいになり、

私はオカリナで吹きました。

エルガーの「愛のあいさつ」

帰るところなんて、どこにあるの? [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

前回お約束していたエピソードについて
お話したいと思います。

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ある人がいました。

もう
歳は70才を過ぎた人。

ある事情で
ふるさとから離れた遠いところで
40年以上過ごさなくてはならなくなり、

40年たって
何もかもをなくして、
名誉も信用も無くして、
自分のふるさとに40年ぶりに帰っていく人でした。

もう
ふるさとには
その人を知っている人はいませんでした。


帰る前の日
一人の青年が
その人にこんなことを言いました。


「本当にご苦労さんでしたね。
 あした
 お帰りになるんですね。

 つらかったかもしれませんが
 どうかお体を大切にして
 元気でお家に帰ってくださいね。」

 その人は、ぽそりとつぶやきました。
 「家は…ありません」

 青年は悲しくなりました。
 そしてこう言いました。
 「でも
  あなたを待っている人に 
  元気なお顔を見せてあげてください。

  奥さまやご家族に
  ただいまって言ってあげてください。」

 その人はつぶやきました。
 「妻は、なくなりました。
  家族は、いません。」


もう

帰るところもなくなって

待ってくれる人も誰もいないふるさとに



どんな気持ちで帰ればいいんですか?


帰って何かあるんですか?


きっとその人は
心で叫んでいたと思います。


でも
青年の言葉はそれで終わりませんでした。


青年は言いました

パラダイムシフト [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。


私の人生を変えた衝撃の日。

その日

一人の寝たきりのご婦人が
一つの言葉を下さりました。

「生きるってことは 愛だよ」
という言葉でした。

衝撃を受けました。
ことばの宝です。



「生きるってことは、 愛だよ。
愛に格好なんか ないんだよ。
明日までしか生きられない いのちでも
百歳になっても生きなきゃあいけない いのちでも
たった一人のあなたなんだ。
それほど大切なあなたなんだよ。

だから
このいのち
生きて
生きて
生き抜こうね。

それが

愛だよ。」


さて、

このことについて
あるリハビリの博士は
「能力の価値から
 存在それ自体の価値へのパラダイムシフト」
という表現でそのことを説明しています。

「「なる」価値から「ある」価値への気付き」

という言葉でも表現されます。

このことは、とてもわかりやすい例があります。



何だと思いますか?



思い起こして下さい
私たちが赤ちゃんだったころ
・・・思い出せないかもしれませんけどね(笑)・・・

私たちに何ができましたか?
笑うこと、泣くこと、駄々をこねること 
いろいろなことをしたと思いますが
私たちがいること自体
みんなが和んだんじゃないでしょうか。
それが愛じゃないでしょうか。

(少し話がそれますが
 腹の立つ人に出会った時
 何とかしてとっちめてやりたいと思うような嫌いな人がいる時
 その人が赤ちゃんだったころを想像してみましょう。
 人はみんな赤ちゃんだったのですから。
 その人は 元 赤ちゃん なのです。
 そうしたら面白くなってきて、
 嫌いな感情も
こにくたらしい感情も吹っ飛んでいくことが多いですよ。)


次回は
「生きるってことは、愛だよ」
をさらに深める
あるエピソードをご紹介します。

「生きるってことは、愛だよ。」 [癒しのエッセイ]

自分に何もできない時、
何の力も
何の余裕もない時

こんなことさえ思ってしまいました。
「こんなおれ、
生きていて何になる?」


しかし、そんな時にある言葉に出会いました。

「生きるってことは 愛だよ」
という言葉でした。

寝たきりのあるご婦人が残してくださったことばの宝です。



「生きるってことは、 愛だよ。
愛に格好なんか ないんだよ。
明日までしか生きられない いのちでも
百歳になっても生きなきゃあいけない いのちでも
たった一人のあなたなんだ。
それほど大切なあなたなんだよ。

だから
このいのち
生きて
生きて
生き抜こうね。

それが

愛だよ。」



私の中で
何かがひっくり返りました。


「愛は思いやり」
そう思っていました。

日常生活の中での
家族への
職場の人たちへの
出会う人みんなへの
思いやり。

それはそれで正しいでしょう。


しかし
それだけではなかったのです。

愛とは

そこに
いま
私がいること
生きて
そこにいること

それが
まさしく
立派な愛だったのです。


「生きるってことは、愛だよ。」

本音の疑問に答えはあるんですか? [癒しのエッセイ]

「愛」

一言でいうと
「思いやり」

だから
思いやりの持てる生活ができたら素敵だね!


ホント????


でも実際に
「思いやり」を持とうと思っても持てないことがあります。

人のために何かをしようと思っても
できないことがあります。


何もかもがいっぱいいっぱいのことがあります。

そんな時に
「愛」
「思いやり」

その言葉が
かえって重たい砂袋のようになり
しんどいんです。


わかりますか?




私自身
生きていることが精いっぱいの時がありました。
人に何かをすることもできない
人に迷惑をかけないようにすることだけで精いっぱい
しかし、迷惑をかけることも多い。

人を思いやる心の余裕もできない。
自分のことを主張してわがままを言うことしかできない。
ましてや世の中のためにいいことなど
何一つもできなかった。

同じ気持ちの人たちにたくさん出会いました。
お酒を飲むことだけで精いっぱい。
病院や施設で看護を受けることだけで精いっぱい。
毎日の生計を立てるだけで精いっぱい・・・・。

人に何かができることを「愛」と呼ぶなら
人に何もできない自分は
「愛」することなんてできない・・・・

私は
受験戦争のときも
社会人になってからも、
何かができる人になれるよう
能力のある人になれるように
頑張ってきました。

しかし、それを失ってしまったら
私には何が残る・・・・・



何が残るんですか?

「愛」を表すのにぴったりの言葉 [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです

今日も、エルガーの「愛のあいさつ」を
朝一番に吹いて、挽きたてのローストコーヒーを飲みました。


「愛」


その最初の言葉は
「ご大切」
でした。

私も大切であり、
あなたも大切であり、
大切でない人は一人たりともいないんだよ・・・

そういう真実。


でも、
今の時代に「ご大切」と言っても
通じないしな・・・・

そう思っていたおり
ある方が
こんなことを教えてくださいました。
「愛」「マザーテレサの愛の実践」「真実の愛」いろいろあるけれど
一言で言ったら

「思いやり」ですね。

と。



これは心にずばり納得できました。

「愛」を日常生活の中で親しみやすい一言で言うと
「思いやり」
なんですね!

難しいことは考えなくていい、
思いやりを心がけて日々生活していれば
愛 は自然に生活の中に根を下ろす・・・・


相手が何をしたら喜ぶか
何をしたら悲しむか
それを、一歩踏み出す前に考える
そう言う「思いやり」を習慣づけよう!


そう納得しました。

しかしそれでも私の疑問は
解決しなかったんです。

そんなに簡単なことじゃあなかったんです。

「愛」のもともとの言葉って何? [癒しのエッセイ]

「愛」ということば
非常に美しい響きのある素晴らしい言葉です。

ロマンチストである私は この言葉が好きです。

この言葉にはいろいろなニュアンスがあると思います。
「男女の愛」
「家族愛」
「人類愛」
など・・・・

ちなみに、
フランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えに来た時、
キリスト教の大きなテーマは「愛」でありますが、
日本語の「愛」にはいろいろな意味があったので、
適切な言葉が見つかりませんでした。

ザビエルは日本語がわかりません。
ザビエルの伝える教えを日本の言葉で伝えたのは
いっしょにいた日本人でした。
アンジローというその日本人は、
ザビエルが日本にわたる前に助けられた漁師です。

ウラシマタローじゃありませんよ。
アンジローです(笑)

日本で犯罪を犯してしまったアンジローが、
外国船に密航して逃げていたころ、
マラッカでザビエルに出会います。


自分を罪びととさげすみながら逃げてきたアンジローは
ザビエルに出会って
「こんなおれでも
愛されていて
愛してるんだ」
と感じたことでしょう。

しかし
もちろん無学なアンジローにスペイン語なんかわかるはずがありません。

アンジローは
ザビエル神父たちの優しい雰囲気
慈愛に満ちたまなざしなどから
言葉ではなく 雰囲気で直接「愛」を感じ取ったと言われています。

そして
日本語で翻訳された「どちりなキリシタン」をはじめとする
キリスト教の教本は
アンジローをはじめとする日本人が
書いたそうです。

それで
ザビエル神父の教えるこの「愛」は
適当な日本語が見つかりませんでした。

そこでアンジローたちは
「ご大切」という日本語をつかったそうです。


「ご大切」
つまり、人が一人一人大切であるという意味です。

神様は一人一人を見ておられ、
大切にされている。
私も大切であり、
あなたも大切であり、
大切でない人は一人たりともいないんだよ・・・
ということを
ザビエル神父ははるばる海を渡って教えに来ました。

アンジローたちが使った「ご大切」。
社会のクズと言われ、
どこに行っても自分の価値を見つけられなかったアンジローの
涙と喜びが
この言葉に込められているのではありませんか?



現代で、この「ご大切」をわかりやすい言葉で表せないだろうか・・・・
私は深く考えてみました。

バイオリンの名曲「愛のあいさつ」をオカリナで吹いてみました。 [癒しのエッセイ]

今日は朝から優雅な気分なので
エルガー作曲の「愛のあいさつ」をオカリナで吹いてみました。


「愛のあいさつ」(フランス語で Salut d'amour)は
イギリスの作曲家エドワード・エルガーの作曲した名曲です。

バイオリンやピアノでよく演じられますが
その優美な調べは、時間を忘れてゆったりした気持ちになれます。

この調べをオカリナでやってみたらどうなるか・・・・
実験心いっぱいで吹いてみました。


バイオリンとは違う、
ふっくらとした優しさが
オカリナから表現できました。

この曲「愛のあいさつ」は、作曲者のエルガーが、
ピアノ教室の生徒であるアリスと婚約した時に
その喜びの気持ちを記念に作曲したものと伝えられています。

当時エルガーは名もない作曲家、
アリスは将軍の娘で、
身分の格差の理由や
また
同じクリスチャンどうしなのに
エルガーがカトリックで
アリスがプロテスタントだという理由などから

周囲からはことごとく結婚を反対されます。

しかし
エルガーもアリスも確信していました。

人格と人格が引き合う愛は
どんな事情があってもさめることがない。
親の身分がどうの、
宗教とか民族がどうのということで
離されることはない。
どんなに周囲が引き離そうとしても
引き離されることはない。


この曲には
その確信が
喜びとともにゆったりと流れています。


戦う愛ではない、
必死で貫く愛ではない、

当然の余裕のある愛。

そんな
変わらない愛のあいさつが
感じられます。


愛。

素晴らしい言葉の響きですね。

次回は、
この「愛」という言葉についてじっくり考えてみたいと思います。

土のものがたり(第8話)~ 天空の音色 [土ものがたり]

あれから

もっともっと時間がたった。


ケヤキの大樹も

なくなっていた。




私の姿もなくなっていた。


私がどんな姿をしていたかも

忘れてしまった。



土だったのか

水だったのか

火だったのかさえ



もう忘れてしまった。



でも

たしかにわかることがある。



いま

私がいるってこと。



いま

ここに

なんだかものすごく温かい

ものすごくなつかしい

言葉でどういえばいいんだろう


嬉しくて

切なくて

涙が止まらない音色が飛び交っている。



私もその音色の中にいて

一緒に飛び交っている。



私は土でもない

形あるものでもない。



私は音色。



懐かしい音色たちに囲まれて

懐かしい光に抱きしめられて



いま

こうしている。

そう


わたしはいま

いるんだ。

土のものがたり(第7話)~風の記憶 [土ものがたり]

オカリナぽーるです。

前回の連載も終わりに近づいてきました。


第7話です。

^^^^^^



私はその少年の手の中で

いろんな音を奏でた。


楽しい音

おもしろい音

明るい音

悲しい音

つらい音

勇気の出る音

落ち着く音・・・・




また何年も年月が流れた。


その少年もおじいさんになって

旅立って行った。



私の中に

何人の少年の

何人の少女の息が吹き込まれ

風のかなたに音を届けたのか



もう覚えていない。



小さなケヤキの苗木が

いつしか

太く、高くなっていて、

そびえたつ大木になっていた。




いまも

風が吹いている。


どこから吹いてくるのかわからない。

どこへ吹いていくのかわからない。


きっと風は

どんな音も

どんな音色も

おぼえていて


どこからか、吹いてきて


どこかへ、音色を届けにいくんだ。





でも

そのことを

私ははじめから知っていたような気がする。

土くれだった

はじめから…・





そうなんだ・・・・




風が音を運んでいく、行先は、


それは


ふるさと。




すべてのたましいのふるさと。


土も

木も

火も

水も

風も

星も




何もかも帰っていく


すべてのふるさとに、



みんなが

私を吹いて

私から出してくれた音がある。



風はそれをおぼえている。





きっと


そこからやってきて

そこへ帰っていくんだ。

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