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土のものがたり(第3話)~出会い [土ものがたり]

オカリナぽーるです

前回の創作物語の続きです。


****


ある日


深い地の底から掘り出され、

こねられて

練られて

釜の中で火を入れられた私は



音の出る何かの形になった。


そして私はこの森から運び出され

どこか知らないところに並べられた。



私は今何者なのか

どんな形をしているのか

何のためにここにいるのか

それは私にはわからなかった。




また何日も時間がたった。


あるとき棚に並べられている私を見た少年が


私をとりあげて息を吹きいれた。



音がした。



少年は満足した。



そして少年は私を持って

どこか知らない街へ

少年の住む街へ私を連れて行った。




これから

私は

この少年と一緒に生きていくんだ・・・・



そう感じた。

(続く)

土のものがたり(第2話)~音の創造 [土ものがたり]

オカリナぽーるです

前回の創作物語の続きです。


****

あれから何千年たったんだろう。

私は

どんな姿で

どこにいたのか覚えていない。




もう

形もなくなって

細かい土になっていたのかもしれない。


そして

あるとき職人が私を掘り上げて

水でこね、練ってねって粘土にした。


こうして私は何か形のあるものによみがえろうとしていた。



私は焼き芋のような形になって、

窯の中で焼き固められた。


職人は焼きあがった私を見てにっこりした。


熱が冷めたころ

職人は私の中に息を吹きいれた。



職人のいのちの息が私に吹き込まれて

その息が私を通って音になった。


音は

空に
森に

響き渡った。



職人は満足した。

(続 く)

土ものがたり~土の記憶 [土ものがたり]

オカリナぽーるです。

きのううかんできた詩をきっかけに

「古代の土笛」に思いを寄せた即興演奏を
海辺で思いっきりやって楽しみました。


それで
潮風を受けて気持ち良くなっていたのですが、

頭の中に
古代の土笛が
オカリナになって現代に届くまでの
壮大な物語が浮かんできて

あわててメモに書き留めました。

きょうお届けするお話は
そんな私のオカリナ空想物語です。


どうか
飽きずに読んでくださいね。

************
土ものがたり(第1話)土の記憶


土笛は思う。



私はどこから来たのだろうか?

どうして私はいるのだろうか?

わからなくなってしまった。



もう何万年も前のような気がする。

誰かが私を創った。

だから、創った方の息吹を時々感じたら、

私はなんだか懐かしくて幸せになる。



風の香りや

木漏れ日の光を感じる時、

そんな幸せな気持ちをふと感じることがある。



何回つくられて

何回、土に戻って

何回生まれ変わってきたんだろうか。

そんなことはもう覚えていない。




何万年の間

私はあるときは笛になって

あるときは花びんになって

あるときはお茶碗になって

そしてまた笛になったような気がする。



この何万年の間

私の中に幾千万の命が加わった。

森の落ち葉、

虫や動物、

いろいろな命が、

私の中に溶け込んでいった。


こうして今私はあるんだなとときどき思う。



もっと時間がたった。

もう
そのこともぼんやりしか覚えていない。

(次回に続く)

古代の土笛 [詩をつくりました。]

こんにちは
オカリナぽーるです。


今日は

想像もできないくらい昔に
土笛があったころのことに思いを寄せて

詩を作ってみました。


**********

笛吹きの思い出



もう誰も思い出せないほどの昔、

光と風と土と水が
いたわりあっていた。


人々は木々や草や生き物と
おしゃべりをしながら生きていた。

笛吹きは土から作った笛に息を吹きいれて、
風に乗せて光のふるさとへ祈りを送る。


毎日毎日、
雨が降れば
ありがとうと祈りを送る。

日が照れば
ありがとうと祈りを送る。
嵐が来てもありがとうと祈りを送った。

風の方向と雲の流れを読みながら
太陽のふるさとに祈りが届くように魂を送る。



笛は祈りを運ぶ。


ありがとうと
真心をこめて運ぶ。

笛の音が風に乗って、
祈りが登って行くとき、
みんなやさしい気持ちになった。

笛に祈りを乗せるときは
太陽の光が眼で見える夜明け、
そして夕暮れ。
そして月の光が見える夜。
星の見える夜も祈りを送った。

小さい、か弱い人の息を、音色に乗せて
光の神様にささげた。


神様がこの魂の捧げものをお受けになられると、
海の光が七色に輝いた。

風が凪ぎ 波が止まる時、
笛吹きは神様からのお話を聞いた。

どんな時も 
どんなに小さい命のことも
大切に愛してくださっている神様からの、
やさしさこめたささやきを聞いた。

そして魂で聞いた神様からのお話を
笛の音色にして、
空と地と水にあるすべての仲間に伝えた。


いとおしさと
いたわりこめて
伝えた。

こうして仲間の心はいつも満たされた。

森の木々も、
空の小鳥も、
草原の草も、
池の亀も、
海の魚も、
みんなみんな
満たされた。

喜びと平安のうちに
いつでも
どこにでも
神様の愛があった。

いつでも神様を愛していた。


そんなときがあった。


悲しいことも
つらいことも
何もかもそのまま
抱きしめてくださる
神様の愛の吐息を、
いつもすぐそばに聞いている。

そんな毎日があった。


もう誰も思い出せないほどの昔だった。


でも
今勇気を出して、
耳を澄ませば、
かすかに思い出せるような気がする。


はるか昔の
優しかったあのころ、
温かかったあのころを。


信じれば
昔が返ってくる。


信じれば。

オカリナが運んでくれた「おもしろい平和」 [詩をつくりました。]

オカリナぽーるです。

私は
小学校のころからオカリナが大好きで

学校に持って行っては
帰り道でよく吹いていたものです。

でも
私は少し変わり者だったので
いじめられることがよくありました。

あのときは
私に何か落ち度があったから
いじめられるんだろうと思っていましたが、

いじめに理由はありません。

おもしろいからとか、
そう言う場合が多かったような気がします。


帰り道で一人でよくオカリナを吹きました。
オカリナを吹いたら
嫌な気持ちがすっ飛んで行きました。


しかし、
あのころ
「オカリナ」に
なんだか
変なイメージを持たれていて、

「アイツをいじめたらオカリナを吹かれて呪われるぞ」
と言われていました。
でも
決して
そんなこと、思ってもいませんでした。

いいえ
オカリナの音は
腹の立つ気持ちも何もかも
清めてくれました。


そのときの気持ちを思い出して
こんな詩を書いてみました。

**********

腹の立つとき


誰かに何かを言われたり
何かをされたりして
はらのたつとき、

「このやろう」って思う時、

吹いてごらん。
ぼけーっと
すっとぼけた音のオカリナを。


そうしたら
想像出来るよ。

この人が赤ちゃんだったころの姿。


ほら
明るくなってきたよ。
ほのぼのとしてきたよ。



紅葉のような手のひらで
ニコニコ笑う姿が浮かんでくるよ。

お母さんやお父さんに可愛がられて
大事に育てられてる姿が浮かんでくるよ。


だれもみんな
赤ちゃんだったんだね。

可愛い赤ちゃんだったんだね。


想像できたら
もう「このやろう!」って思わなくなってるもんさ。


腹を立てていたら面白くないばかりだね。


それよりも、
その人が赤ちゃんだったころの
ずっこけた、かわいい姿を想像して
明るくなっているほうが
幸せだよね。

人はみんな赤ちゃんだったんだ。
可愛い可愛い赤ちゃんだったんだ。


今も赤ちゃんだよ。

だってね、
何億歳も年取ってる
いや
無限歳も年取ってる神様から見たら

赤ちゃんだよ。
愛する愛する赤ちゃんだよ。

だから本当は可愛いんだよおおお!


************


明日も詩の記事を書きます。

「ビカム」から「ビー」へ引っ越そう [癒しのエッセイ]

「きみは何ができるか?」
と問いかけられ続けてきた

少年期以来の私。


しかし、
オカリナと付き合っていきながら
見えてきたのは、

「何ができるか」なんか関係ない
「きみがいることに ありがとう」
でした。

そのことに気づいてから
自分自身の見方が変わっただけでなく
まわりの人への接し方、
考え方が変わってきました。


●「なる become」から「ある be」へ

そして
これからは
考え方を
すっかり変えて生きて行こうと決めました。


これまでの自分は「なる」世界の中にいました。

自分を比較し、
それに負けたら自分を憎む。
自分を卑下する。
いっぽう
人を比較し、
自分に負けた人を見下したり見捨てたり、
一方、よい意味では憐れんで助ける、

自分より勝る人に対してはうらやましがり、
ねたみ、よい意味では「まけじ」と頑張る。

そんな世界でした。


何かに「なれる」人は勝ち組で
「なれない」人は負け組。

でも
この世界からくるものは
不安とか、焦りとかばかりでした。


「なれなかったら」
負けてあきらめる、
それとも
頑張る。

「なれたら」
それが崩れる日を
不安に思う。



そんな次元にいて
幸せな時は一時もありませんでした。


幸せな時がないから
わたしと接する人々も幸せなはずがありません。


そうした次元から

どんな時も
自分が自分であることに喜んでいられる、

どんなときにもその人がいてくれることに喜んでいられる、
すなおに喜んでいられる、

ありがたいと思える

そうした「ひかり」の次元に
自分の心を引っ越そう

そう思えるようになりました。

それは
そうしようと思った瞬間にできることなんですね。


そう。
簡単にできることなんです。

NOT ”BECOME” BUT ”BE”
 なることの価値から あることの価値へ

ですね。

数回に分けて、
ある老人ホームに音連れて気づいたエッセイを書きました。

ここでの私の気付きが
あなたの人生に
何らかの役に立ってくれることを願います。


明日も記事を書きます。
お楽しみにしてください。

「パラダイムシフト」 [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

私の大好きな言葉は

「生きるってことは 愛だよ」

です。

この言葉は
私がヘルパーになって間もないころ、
自分ではご飯を食べることも動くことも何もできない一人の方が
私にくださった言葉の宝物です。


●必要とされない人はだれ一人いません。


私はこれまで
「何かの役に立てること」を
生きる目的にしてきました。

それが
「おまえは、もういらん」
と言われた時が何度もありました。

「きみは、もう、いらない・・・・」

生きる目的を失いかけたことがありました。


しかし
今思います。

「生きるってことは、愛だよ。」

この言葉がくれた
大きな意味。


世界に
「必要とされない人」はだれ一人いないんです。
言い切ります。
「世界に必要とされない人はだれ一人いません。」




「君は何ができる?」
「君は何の価値を作り出すことができる?」
「君はどんな貢献ができる?」
と問われ続け、全力で生きてきたこれまでの日々。

しかし、考え直しました。




自分は
何かができるからとか
そんな評価されるから価値があるのではなく、

自分自身がいるだけで すばらしいことです。


●考え方を変えたら、人に対する接し方も変わった。

そして
この考え方の転換(パラダイムシフト)で

自分を取り巻く周りの人への理解が変わりました。

家族、クラスメート、職場の人、地域の仲間
みんなに対して
何かができるから尊敬し、
何かができないから見下したりする、
そのような気持ちが心の隅に少しでもあるならば
人との豊かな時間を過ごせなくなります。


だから
このことに気づいてからは
何ができようと、できまいと
好きな人であろうと、苦手な人であろうと
みんな
大切な人だから
「おはようございます」と
心こめて挨拶してみようと思えるようになりました。

そして毎日
そうしています。

「わたしは いま ここに いる。」 [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

私は今まで
「誰かの役に立つこと」を人生の目標にしてきたし、

「人より努力して
より役に立つ人間になること」
を生きがいにしてきました。


しかし、
努力が報われず
何の役にも立たないと人から言われた時
私は今までなんのために努力してきたんだろうか・・・

そのことを想像すると怖くて・・・


そんなとき
ある日オカリナ演奏で訪れた特別養護老人ホームで
あるご婦人がこんなことをおっしゃりました。


「ここにいても、

いるんやな。

いるんやな。」

この言葉の中に
「いる」ことの意味が深く含まれていると気づかされました。


このご婦人は
これまでできていたいろいろなことが
できなくなり、

「特別養護老人ホーム」に入所してからは
世話をしてもらうばかりの生活になり
きっと自分の中で
こうつぶやいていた毎日だったと思います。
「なぜ生きる? 生きていたくない? 
いつまで生きなければならないのだろう?
そう思ってしまう。」


そんなご婦人が言われた一言
「わたしは
いる。」

この言葉には衝撃を受けました。



オカリナ演奏の席で
うつむいておられたこのご婦人に、

演奏を中断して少し話してみると
こう言われます。

「だあれもうちのこと、会いたがらへん。
 うちがいても喜んでくれる人、
 だあれもおらへん。
 生きていてもしょうがないけど・・・・
 ここでお世話になって・・・
 寿命が来たら静かにあっちに行くわ・・・」

よくお話を聞くと

若いころは、地域のために多くの働きをしてこられた方でした。
「認知症」になり
特別養護老人ホームにに入所して、家族の面会もほとんどなくなりました。

「面白くないんですか?」

「そうやな・・・おもろない・・・・」


はたして
「誰かに必要とされているかどうか」
が生きる面白さなのかどうか?
考えました。



私事ですが、
私は幼いころから
「勉強して、立派な仕事について、世の中に役に立つ者になれ」
といわれ続けながら成長しました。
そして
大人になって、ふたを開けてみれば
世の中の役に立つどころか、人に迷惑をかけるばかり。
私の目標は
「世の中に役に立つ」のではなく
「少なくとも人に迷惑をかけない」
になってきました。

しかし
どうしても人に迷惑をかけざるを得ない状況にもなりました。
どうしようか・・・・

しかし
この老人ホームでオカリナを吹いた日、
何かが吹っ切れました。


オカリナとともに心行くまで合唱して
「ここにいても、
いるんやな。
いるんやな。」
と笑顔で言われた
先ほどのご婦人のお言葉です。

これまで私が、自分の価値として思っていたこと
「必要とされている」
「役に立つ」
「何かができる」
「何かの価値を生み出すことができる」
「人に迷惑をかけずに暮らせる」

それが本当に自分の価値なのか?
人の価値なのか?

赤ちゃんはどうでしょう?
何ができる? 
笑ったり泣いたりできますが、
働いてお金を稼げるでしょうか?

本当の価値は
「何かができる」「何かの役に立つ」「必要とされている」
のではなくて
そこにいること自体
本当の 
絶対に否定されることのありえない
価値だっていう
そんなあたりまえのことにさえ気づけなかった
そんな私が恥ずかしく思えました。

ご婦人が言われた
「いるんやな」
という意味。

それは
「わたしが 
いま
ここに
いること自体
本当に
大切で 価値のあることです。」
ということだったんですね。


このことに気づくのと気づかないのとで
生き方が変わります。

すごす時間の「質」が変わります。


時間の質が変わる関わらないかで
人生が変わります。

次回に続きます。

「あなたはだれかの役に立っていますか?」と聞かれたら・・・ [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

ある老人ホームの方がおっしゃった言葉

「ここにいても、

いるんやな。

いるんやな。」


この言葉からいただいた気付きの続きをお話します。



もし

「あなたはどうしてここにいますか?」

「あなたは何を目標に生きていますか?」

「あなたは何のために毎日働いて生きているんですか?」

こう突然聞かれると

どう言う答えを

とっさに言えるでしょうか?




「家族を守るため」

「人の役に立つため」

「社会に、価値を届けるため」


私ならこう言ってしまうかもしれません。


「他にありませんか?」



こう聴かれても

「うーん・・・・」

と考えて、答えが出てこないと思います。




なぜこんなことになるのでしょうか?



私が生まれたころは、ベビーブームでした。
そのころは、経済は成長して
外国に追いつけ追い越せの勢いでした。

そのころ
私を囲む大人の多くは
競争に勝つことばかりを考えている人が多かったような気がします。



学校でも家庭でも
「人よりも優れていること」が求められていて
優れていたら
「よかったね」とほめられて
優れていなかったら
「がんばれ」と励まされる日々だったと思います。


もちろん
学校でも点数順位を発表されて、比べられていたし、
模擬テストを受けるたびに
「偏差値」という数字を見せられて
「頑張れ、頑張れ」と言われていたんですが


困ったことに

まわりの大人に比べられるだけではなくて
自分自身が
自分を比べたり品定めしていたことに気づかされます。


私自身が、自分を誰かと比べ、
誰かより勝っていたら自分が必要とされていると喜び、

誰かより劣っていたら、
自分は必要とされていないと落ち込むか、
必要とされる自分になるように頑張るか、

そう言う思考パターンになっていたんですよ。

そしてそのパターンで
「誰かに負けない」という行動を
無意識のうちに取って来たことが多かったんですね。


(もちろんこれは、あくまでも私の雑感であり、
全ての人がこれに当てはまることでは決してありません)



さて、
そう思い込んでいた私が

勝ちパターンのころはトントン拍子で
「よし、次は、少し先を行くアイツに追いつき追い越すぞ」
とがんばれるんですが、

いつか
誰かに必要とされていないと感じたら
(自分自身が誰かの重荷になっていると感じたら)

生きる希望や生きる意欲をなくしていくんでしょうか?


そう思うと、この先の自分が怖くなってきました。



本当にこわくなってきました。


この怖い気持ちにどう向き合って行ったらいいんでしょうか?



次回はこのことについてさらに踏み込んでみます。

「必要とされること」って何? [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。
昨日の記事で、
ある老人ホームにオカリナ演奏に行った時のお話をしました。


そこで

あるご婦人がこんなことをおっしゃりました。


「ここにいても、

いるんやな。

いるんやな。」

この言葉の中に

「いる」ことの意味が深く含まれていると思うんです。


帰ってから深く考えました。



そうしたら


ハッとしたことがありました。



私のこれまでの人生観、

考え方をまっさかさまにひっくり返すくらいの

大事件と言っても過言ではありません。


私は
いろんな場の中で
「いる」ことの意味を

「誰かに必要とされること」
と思っていなかったか?


学生のころは
勉強する理由は、
役に立つ大人になりたいからと思っていなかったか?


社会に出たら
会社などで働いて行く理由に
家庭にいたら
家族を支えたり世話をする理由に
「必要とされている」ことと思っていなかったか?


これまで
そう思い込んできたのではなかったか?


こう自分で自問してみました。

それで
もういちど
自分に問いかけてみました。


「なぜ生きる?」



私をだれか必要としているから?


「なぜ仕事をする?」

私の働きが必要とされているから?



でも
それが本当でしょうか?


もう一度考えてみました。


そうしたら


わたしは

何にもわかっていなかったことに気づかされたのです。


そのことは、

次回お話します。

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