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「悩まなくていいよ」マタイ福音書の癒しのことばを吹く~青少年のゴスペル「野に咲く百合の花」 [癒しのエッセイ]

青少年のためのゴスペル「野に咲く百合の花」。
このゴスペルは、マタイ福音書6章の26節から30節の
有名なイエスの福音を歌にしたものです。
この記事では、オカリナ演奏に込めた思いと、
その背景となったマタイ福音書について書きます。

ゴスペル「野に咲く百合の花」は、
プロテスタントやカトリックでの子ども会、
教会学校、青年会などでよく愛唱されている、
青少年のための聖歌です。
この歌をオカリナで二重奏しました。

演奏のYoutube動画です↓
https://youtu.be/4q1ydGbvSXI

野に咲く百合の花は1.jpg


ゴスペル「野に咲く百合の花」の想いで


このゴスペル「野に咲く百合の花」、私にとって懐かしいうたで
学生時代、教会の日曜学校のリーダーをしていて
ちびっ子たちを引き連れて、軽井沢のサマー合宿に行きました。

朝5時に起きて、小鳥のさえずりをきいて、
みんなで、神様のお恵みについて話し合いながら、散歩したのですが、

雑草の茂った空き地に、きれいな真っ白い花が咲いていました。
ある子どもがびっくりします。

「この花、雑草なのに、きれいだね」

つまり、雑草というのは、誰の世話を受けることなく、
咲いても誰に愛でられることもない状況ということですが、
そんな状況の中にきれいな花が咲いていることを
その子供は幼心にも感心したわけです。

私はこう答えました。
「この花は、百合の花と言って、
お花屋さんにも売ってる、素晴らしい花だよ。
神様が咲かせてくれたんだなあ、すごいなあ。」

それを聞いていたもう一人のリーダーが言います。
「このゆりの花には、
聖書の中にお話があるから帰ってから読んでみましょう。
あと、歌もあるから歌ってみましょう」

このリーダーさん、急きょ機転を利かせて
合宿所の教会に帰ってから、子どもの聖歌集を引っ張り出してきて
「野に咲く百合の花」をオルガンで弾いて歌ってくれたんです。
これはきれいだ!
私は、即座にポケットからオカリナを取り出して
オルガンと歌に合わせて吹きました。
(私は当時、楽譜を読めなかったのですが
耳で聞いたら、初めての曲でも吹けたのです)

みんなも気に入ってくれて、
その後のスケジュールを変更して
この「百合の花」についての聖書のお話を読んで、
合宿の終わりにあるミサでは、この歌を歌うことにして
みんなで練習しました。

歌詞が素敵なんですよ。

野に咲くユリの花が、神さまの命のままに、だれも見ていなくても
きれいに装うこと、
また、青空をとぶ小鳥が、神さまの命のままに、だれも聞いていなくても
きれいに歌うことを称え、
悩むことなんかせずに、明日は明日のこととして、
この日を大事にして、だれも見ていなくても、私たちのつとめに励もうと歌います。
私たちも、百合の花や小鳥のように、神様にすべてをゆだねきって、
心から感謝の祈りをささげましょうと歌います。

「野に咲く百合の花」演奏のYoutube動画です↓
https://youtu.be/4q1ydGbvSXI

オカリナは、南大阪に工房を持たれている板東正裕さんの作品
「颯オカリナ」のソプラノGとアルトGで
二重奏に仕上げました。

野に咲く百合の花は3.jpg


この歌のもとになった、聖書のお話とは何でしょうか。

マタイの福音書に見る、野の花、空の鳥の話


この「野に咲く百合の花」
マタイの福音書6章の言葉からとられた歌ですが、
昨年、神戸と南大阪のオカリナフェスタで私が演奏した
聖歌「ごらんよそらの鳥」
と同じ福音から作られた歌です。

ちなみに
「ごらんよそらの鳥」の私の演奏はこちらのYoutube動画です。↓
https://youtu.be/B1uO8oJgww8

ごらんよ2.jpg

「ごらんよそらの鳥」が長調で明るく爽やかで
「野に咲く百合の花」は短調でほのぼのしたイメージですね。

両方、聖書の同じ福音からです。
マタイによる福音書 第6章 25節から34節にあるこのお話、
イエスが弟子に話されたお話ですが

「だから、言っておく。
自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、
また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。
命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

:空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
:あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。
栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、
信仰の薄い者たちよ。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、
思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(新共同訳聖書より引用)

というお話です。
少しむずかしいですね。

今どきの言葉でいうと、こういうことだと思うんです。

「空を見上げてごらん
可愛い小鳥が飛んでる。
小鳥たちは自分で種まきや刈り入れとかをしないけれど
天のお恵みで養ってもらってるんだよ。

ほら、足もとを見てごらん
空き地に白いゆりの花が咲いてる。
このお花がどうして育つんだろうか?
お花は自分で動けなくても
天のお恵みをいっぱい受けて
白くきれいに着飾っている。
王様の豪華な着物よりも、もっとステキだね。

小鳥もお花も
だれに世話をしてもらっているわけじゃないけど、
天のお恵みをいっぱいもらって
今をいっぱい楽しんでいるんだよ。

だから、だから私たちも
あすこことや、きのうのことを
悩んだり怖がったりするのは
やめようよ。

きっと
気づかなかったお恵みが
いつも私たちに注いでいることに気が付いて
ありがとうって思えるときがあるよ。」

こういうことだと思うんです。


悩まない だったらどうすればいい?



マタイのこの福音の意味、
あれこれ思い悩んでいたら、未来につながっている現在が暗いものになっているから、
未来も引きずられてしまう。
だから先のことは、先が考えるから、今を精一杯生きよう。
今を明るく、安心して生きて居よう。
こう教えられるのだとおもいます。

しかし、
どうしても悩んでしまうのが私たちのつらい所です。
苦しみや不安が多いほど
「悩むなかれ」なんか言われても
どうすればいいかわからなくなります。

学生時代、私は毎日合気道の激しい稽古に身をさらしていましたが、
激しく厳しい合気道の稽古の中で
泣きそうになったり、本当に泣いている私たちに
恩師がよくこう言っていました。
「悩んでも間に合わない。
驚いても間に合わない。
突然何かが起こったとしても、
驚かず、
悩みもせず、
死力を尽くせ。
それが、武道を求道するきみたちのあるべき姿だ。」

これは、
イエスが教えた「空の鳥、野の花」の福音に相通ずるものがあります。

しかし一方で、この「悩まない」ということは
先に予想される困難について
何も考えず、行き当たりばったりで対処する事でもないと思うのです。
やはり、あれこれ考える必要があるときはあるし、
何も考えずに事に臨んで失敗することも多々あると思います。

こういう場合、
私は、「悩む」のではなく、心の中で「ディスカッション」すべきだと思うのです。

「悩む」のではなく、心の中で「ディスカッションしよう


「悩む」という心の活動の中身をみると、二とおりのものが見えてきます。
何もしていないにもかかわらず、あれこれ嫌がる「取り越し苦労」と
「どうせ努力しても報われない」などの「マイナスの観念」
です。

だから「悩む」のではなく「ディスカッション」すべきなのです。

「ディスカッションする」というのは、
この二つの観念の正反対です。
ディスカッションは、「PDCAサイクル」と「プラスの観念」に立脚しているんです。

「取り越し苦労」ではなく「PDCAサイクル」
「マイナスの観念」ではなく「プラスの観念」
によって成り立っています。

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つまり、
何もしてもいないのにあれこれ恐れている「取り越し苦労」とはちがい、
実行する前も考えますが、実行してから良くも悪くも生ずる様々な変化をたえず見て、
それにどう対応するかたえず意見を出し合って再思考する、
「PDCAサイクル」(Plan計画・Do実行・Check評価・Action見直し)です。

また、希望や目標が何もないか、あってもそれが達成できないことが前提になっている「マイナスの観念」とは違い、
希望や目標を未来に設定して、それを満たすためにどうするか、
立ちはだかる障害に対応し、自分の強みを助長しながらどう進んでいくか考え、
必ず目標に到達するという確信を伴った意思を前提にした「プラスの観念」です。

私たちは、先の困難に直面したとき、
あれこれ思い悩むのではなく
この二つの姿勢を基本にして
心の中で「ディスカッション」したほうがいいです。

そのほうが絶対にいいです。

一人でもできる、「心のディスカッション」


ディスカッションというのは
お互いを攻撃や否定する事ではありません。
よく国会中継などでは、ヤジやどよめきが聞こえますが
あのようにお互いを否定したり攻撃し引きずりおろそうとしている姿は
全く建設的ではなく、
「ディスカッション」になっていません。

「ディスカッション」は
立場や見解の異なる相手同士が、考えを伝えあい、議論しあい、視野をお互いに広め、よりよいものを創造していく、思考の交流活動であって、
相手をつぶしたり攻撃したりするマイナスの観念ではなく
意見の異なる者同士が、お互いが何を主張しているかを理解しあい、
よりよいものを目指していくプラスの観念がベースになっています。

リアルのディスカッションでは、複数の人が意見を出し合いますが、
心の中のディスカッションでは、意見や見解の異なる複数の自分を登場させます。
自らの中にも、見方、感じ方の違う複数の自分がいるので
自分の中で意見を述べあい、よりよい方法を探索するのです。
これが心の中のディスカッションです。

こうして
違う角度で見てみたり、
発想を転換してみたり、
あれこれフレームを変えているうちに
いろいろなものが見えてきます。
知らないを知り、気づかないを気づきます。

心の中でディスカッションしているときは
悩んでいるときとは異なり、
目標が達成されたらうれしいだろうな
こうなったら、さらにこうしようかと、
あれこれ、楽しいことや有意義なことを考えたり、
ウキウキしたりしているものです。

野に咲く百合の花は8.jpg

だから、私が伝えたいこと、
それは、
いろいろな悩みがあっても
空の鳥、野の花のように
楽観的に見て
いまを精一杯生きたいね。
でも、やっぱり悩んじゃうときは
取り越し苦労なんかじゃなく、
やってみて、考えて、改良していけば何とかなるしさ(PDCAサイクル)
「どうせダメだ」ってあきらめるマイナスの観念じゃなくて
「絶対に何とかなるさ、そのためにできることを考えよう」と
プラスの観念で
心の中でディスカッションしてみようぜ!

だから私は吹く。
「ごらんよそらの鳥」
https://youtu.be/B1uO8oJgww8
ごらんよ2.jpg

「野に咲く百合の花」
https://youtu.be/4q1ydGbvSXI
野に咲く百合の花は1.jpg


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