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いのちの言葉「生きるってことは、愛だよ」~シューベルトのアベ・マリアともに [癒しのエッセイ]

「生きるってことは、愛だよ」この言葉は、私のキャッチフレーズです。
この言葉をくださった90歳のハナさん(仮名)は、全介助の重い障害の中で在宅ターミナルケアを受けていました。そして「生きるってことは、愛だよ」という言葉は、到底信じられない苦しみの中からいただいた言葉でした。この記事では、この言葉をもらった時のお話をします。

「生きるってことは、愛だよ」この言葉を紹介したくて、オカリナ演奏とともに作った動画がこちらです。
https://youtu.be/CKLFiSBsMfA

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曲は「シューベルトのアベマリア」のオカリナ三重奏と、これに続く即興創作演奏です。
オカリナは、南大阪に工房を持っておられる、板東正裕さんの作品
「颯オカリナ」のアルトC、ソプラノF、ソプラノCで演奏し、ミキシングしました。



90歳の友人との出会い


私は約15年前、思うことがあって、30代後半で福祉の道を志し、
ホームヘルパーになりました。

ホームヘルパーになったばかりのころです。
私はNPO法人(特定非営利活動法人)で仕事をはじめ、
できたばかりの介護保険制度における、
高齢者の方々のご自宅を訪問しての介護に取り組んでいましたが、
NPOでは介護保険制度では支援できない方の支援を行っていました。
その一つに
入院中の方の身の回りのお世話があります。
病院に入院したら、介護保険の対象にならず、
ヘルパーの派遣は制度上できません。(現在も同じです)
しかし、病院の看護師も、医療以外の支援まではできず、
本来は家族が付き添うことになりますが、
その家族も付き添えない方がおられます。
そういう方の所に、身の回りの支援や、寄り添い、傾聴に行っていました。

私に、「生きるってことは、愛だよ。」という言葉をくださったハナさんとは、
ご入院中に私がヘルパーとして訪問して出会いました。

ハナさんとは、
その後、約1年間、
私はヘルパーとして交流させていただいたのですが、

一緒に過ごさせていただいた中で
くださった言葉が、
「生きるってことは、愛だよ。愛に格好なんてないんだよ。」
という言葉でした。


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90歳になるハナさんは、
非常に重い障がいと病気を背負っておられました。
体は全身が動かない、
そして動かないだけではなく、
少しの衝撃で全身に激痛が走る、
もちろん、食事も、入浴も、
生活のすべては介助が必要で、
寝たきりの状態でした。

つらいことは
体のことだけではありません。
心のこと、社会的なこと、二重にも三重にも苦しい境遇にあった、
そんな方でした。

そんなつらい境遇の中で下さった、黄金のことば

それが
「生きるってことは、愛だよ。」という言葉だったのです。

最愛の娘を亡くして




ハナさんは、たえず激痛に苦しむ境遇の中、
いろいろなお話しをしてくださりました。

そんな中で、ハナさんにとって、
こればかりは堪えがたいという
熾烈な出来事が起こりました。

体も動かない、
食事はもとより、下の事まで、人の世話を受けないと暮らせない、
言葉も、ろれつが思うように回らない、
しかも激痛が絶えず襲う、
これ以上苦しいことが想像できるでしょうか?

そのうえに・・・・
ある日
ハナさんのたった一人の娘さん(病気で入院中)の容体が急変しました。
そして間もなく
娘さんは亡くなられたのです。

ハナさんは、娘さんがご存命中、
体が動かず、また遠距離の移動が無理なので、
娘さんに会いに行くことができませんでした。
言葉を交わすこともできないまま、娘さんを失われたのです。

自分の体のこともつらいが、
愛する者を失う、
しかも最愛の者を失うことほど、つらいことはありません。

ハナさんは
枕元に飾った娘さんの遺影を見ては
「どうして先に行ってしまったの、
どうして返事してくれないの」
とお泣きになられるばかりでした。

ハナさんの姿を見て私は思いました。
こんな辛いことがあってもいいのか?
神は、いるのか?
仏は、いるのか?
神の愛とは何か?
み仏の慈悲とは何か?

私はヘルパーとして
家事やお体のお世話をしながら
寄り添っていることしかできませんでした。


苦悶と涙から絞り出された言葉「生きるってことは、愛だよ」



涙を絞るように流し、
細い声をあげて泣き続けられたある日、
ハナさんは、訪問した私に、手を握っておくれといわれ、
私がそっとハナさんの手を握りますと、
出しにくい声を絞り出すように、
次のように語って下さいました。

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「生きるってことは、愛だよ。」

ハナさんは、出しにくい声を出しながら続けられました。

「これから私の言うことを、よく聞いておくれ。

私はこんな体になっても生きている。
今、あんたやヘルパーさんと一緒に、時間を過ごしている。

それがなぜだかわからない。
わからないけど今がある。

いいかい、

生きるってことは 愛だよ。

愛に格好なんか ないんだよ。

少ししか生きられない いのちでも、
何歳になっても生きなきゃあいけない いのちでも、

あなたのいのち、誰も代わりに生きられないんだよ。

たった一人のあなたなんだ。

それほど大切なあなたなんだよ。

だから
このいのち
生きて
生きて
生き抜こうね。

それが
愛だよ。

私のいのちがもし、
仏さまのところに行ったとしても、


あんたがこの地球上にいるいのちで

この言葉を一人でも多くのひとに伝えておくれ。」

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そして
ハナさんは数日後も、こう言われました。

「生きるってことは、愛だよ。

愛に格好なんてないんだよ。

愛に理由なんてないんだよ。

格好が悪いからって、
しょげるもんか。

私もいのちがけで生きている。

あんたたちも、
一日一日を大切にして
生きるんだよ。」


命を生き抜いた


「生きるってことは、愛だよ」
この言葉をくださった数日後
ハナさんは亡くなられました。

亡くなったというよりも・・・
生き抜かれました。
見事に生き抜かれました。

生きて、
生きて、
いのち余すところなく
生き抜かれたと言って過言ではないでしょう。

残念ながら、
私はハナさんの最期に立ち合うことができませんでした。
いろいろな人の所を訪問巡回していた私は、
朝にハナさんを訪問して食事を作り、
その日の昼は、ほかの人のところの訪問になっていました。

ハナさんが亡くなられたのは
その日の昼でした。
看取ったヘルパーさんの話によると、
ハナさんは、私が作って差し上げた食事を
最後にお召し上がりになられ、
「おいしいねえ、ありがとう」
と言われたまま、
眠るように亡くなられたそうです。
ご尊顔は
まるで喜びの中にくつろいでいるように
安らかなお顔でした。

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「生きるってことは、愛だよ」


ハナさんから頂いたこの言葉で
私は衝撃をうけました。

「愛」とは、実践する事だけじゃない。


愛は思いやり、
誰かに何かをしてあげることと
いままで思っていました。


人に何かができて
感謝してもらえて
うれしいこと
それが愛だとばかり思っていました。

しかし、それだけではなかったのです。
「生きるってことは、愛だよ」
この言葉は、これまでの私の人生観をがらりと変えました。
衝撃のある言葉でした。


それでは「生きるってこと」すなわち「愛」とは何なのでしょうか。

それはね、

愛とは、そこに、いま、私がいること。
生きて、そこにいること。
それが、まさしく、立派な愛だったのです。

「リハビリテーション」の概念の定着に大きく貢献された上田敏博士は、
「能力の価値から
 存在それ自体の価値へのパラダイムシフト」
という理論を書かれています。
(上田敏『リハビリテーション -新しい生き方を創る医学-』講談社ブルーバックス、1996年、pp180-181)

まさに「生きるってことは、愛だよ。」は
上田敏博士の提唱された「存在それ自体の価値」に通じる
生きた言葉です。

どんな姿でもいい。
だれに何を言われようともいい。

いること。

いま、いること、

これほど素晴らしい愛はありません。


私は、ハナさんの言葉から気づかせていただきました。

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私は慎んでこの言葉のプレゼントを

あなたに差し上げたいと思います。

「生きるってことは、愛だよ。」

「いのち」のリレーを生きて行く。


「いのち」には、連続性があります。
 

人は生きます。
死ぬのではなく、
生きます。

そして、永遠に生きます。

永遠に生きるということには、二つの意味があると思います。

一つは、
肉体が尽きても不滅の霊魂として、生き続けること。
もうひとつは
生きたいのちが、生きている私たちのいのちの中に、
リレーのように灯り続け、
世代を超えて、時代を超えて生き続けること。

前者は、信仰や思想の問題であるので、人それぞれの見解があり、
ここでは立ち入りません。

しかし後者は、
はっきりわかっています。

現に、ハナさんのいのちは
「生きるってことは、愛だよ。」という言葉になって、
生きている私の中に灯り続けており、

そして、
このお話しを読んだあなたの中に灯り続けて行きます。

ハナさんのいのちのともしびは、
世代を超えて、
時代を超えて、
いのちのリレーとなって、
消えない燈明となって灯り続けて行きます。

生きると言うことは、辛いことが多すぎます。
惨めなことが多すぎます。
それでも人は、1人残らず尊いんだ、そうハナさんは教えてくれました。
人は生きるんです。
死ぬのではなく、生きるんです。
たとえこの世の果てにあっても、
そしていのち終わった後もです。

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そして、どんな人の上にも、生きる喜びに気付き、
涙の止まらなくなる日が必ず訪れます。
遅かれ早かれ、平等に訪れます。

私たちは
日常生活の中で、意識せずともその日に向けて歩んでいるんだと思います。

夢を持ちましょう。夢はかなえられます。

そして
愛があるから、
夢をもって、
夢をかなえていきたい、

一緒にかなえていきたい
そう強く思うのです。

シューベルトのアヴェ・マリアに込めた思い「生きるってことは、愛だよ」



「生きるってことは、愛だよ」この言葉を「シューベルトのアベマリア」のオカリナ三重に込めました。
https://youtu.be/CKLFiSBsMfA

シューベルト4.jpg

オカリナは、南大阪に工房を持っておられる、板東正裕さんの作品
「颯オカリナ」のアルトC、ソプラノF、ソプラノCで演奏し、ミキシングしました。

颯オカリナよ、叫んでおくれ。
水平線の向こう
地球の裏側まで叫んでおくれ。
「生きるってことは、愛だよ。」

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即興曲、創作曲が「おり」てくる 「ひらめきの時」をどうつかまえるか [オカリナ曲によせて]

生活の何気ないときに、「音楽」とか「アイデア」がふっと「おり」てくることがありませんか。
何かについて、あれこれ考えていたり、悩んでいたりしているときは
どうしても思いつかないのに、
そういうことから離れて、頭を休めて
そんなこと忘れてしまっているときに限って、
ふっと 「おりてくる」というかひらめくことがあると思うのですが、
そういう時、どうすればいいのでしょう。

先日、オカリナの曲が仕事中に「おり」てきて、演奏・録音できるようになるまで
9時間もの時間を悶々と過ごしたことについて今回書いてみたいと思います。

まず、今回「おり」てきて、録音するまで9時間を耐えたオカリナ独奏曲
「時の旅人」演奏動画です。
https://youtu.be/JenpFib9hIQ

時の旅人1.jpg




デジャヴ


私は、現在、楽譜を書けるようになるために独学中で
まだ書けないので、
「音」が「降り」て来た時に
感覚を忘れないようにするために、
その辺のメモ用紙に、一緒に浮かんできた詩を書きました。

こんな詩です。

時の旅人4.jpg
デジャヴ

私はきみを覚えている。
会ったことがないかもしれない。
話したことがないかもしれない。
それでも
会ったことがある。
親しく話したことがある。
大切なきみを
私は覚えている。

何気ない生活の一コマで
いつの時だったか
どこの場所だったか
確かに君といたころの風の香りを
一瞬感じることがある。

でも
その一瞬も、
生活の雑事の中に薄れて消えていく。

忘れないようにと思っても
通り過ぎる新幹線のように
忘れてしまう。

でも忘れても忘れていない。
心の隠し場所に
きみは住んでいるから。

時の旅人6.jpg

ひらめきの時には、たいがいメモもレコーダーもない


その「おり」は突然起こりました。
何の前触れもなく
かといって、仰々しくもなく、

そう

現場でシーツ交換をしていた朝、
シーツをたたみながら、心の中にあるフレーズが「来」ました。

車の中とかだと、忘れないように口笛を何回も吹いたりするのですが、
周りに仕事仲間がたくさんいる環境で急に口笛を吹くと変です。

だから心の中のオカリナで
心で繰り返し演奏しました。

そうするとぼーっとしてしまって
シーツの裏表を間違えるわ
注意されても返事を忘れ、なんか気まずい雰囲気になるわで
困ったわけです。

トイレに行って、ポケットのメモ用紙に、
一緒に浮かんできた詩を書きなぐりました。

それでトイレから出てすっきりして、仕事に戻りました。

午後はソーシャルワーク、相談援助があります。
辛い話、難しい話の中で、自分の感情がぐちゃぐちゃになってしまったら
せっかく朝におりてきた爽やかで気高い気持ちを忘れてしまいます。

これは困る。

だから、
自分の気持ち、感情はしっかりと持っておき、
仕事にあたるのです。

難局に立ち向かっている合気道の演武と似ています。

なにもこれは
「おり」てきた感情を大切にする時だけではなく、
相談援助の基本です。

特に、つらく悲しい話や理不尽な現実を聞くことの多いソーシャルワーク(相談援助)では
自分が翻ろうされることなく、物事に理性的に対応することが重要になってきます。
どんなにつらく悲しい話を聞いても、
どんなに理不尽で放っておけない現実を聴いても
嘆きで理性を失ったり怒りで理性を失ったりせず、
感情的にならずに、静かに熱く誠実に対応しなければなりません。

自分がつぶれそうな話を聞いても
自分をつぶしてはならない。

さらに、
会議。
いろいろ話し合ったり意見を聞いて、言わなければなりません。
こういう場でも、
自分の心は大切に保ちながら、
会議ではしっかり話を聞いて、意見を言う。

こういうわけで
午後のソーシャルワークや会議の間じゅう、
自分の中で「おり」てきたものを保ちながら、仕事を決しておろそかにせずに、
過ごしました。

降りてきた「もの」の鮮度を絶対に失わない金庫をイメージして、
そこにしまっておいたので
9時間もの間でも、仕事にどれだけ打ち込んでも大丈夫でした。

仕事が終わって、ずっと我慢していたオカリナとレコーダーを取り出し、
一気に録音しました。


「ひらめき」を保存するイメージの力


時の旅人7.jpg

このように、何かが「おり」てきたとき、
その鮮度と純度を保つことが大切になります。

優しい気持ちになれたにせよ、
神々しい気持ちになれたにせよ、

その気持ちを保つこと。

それは、頑として離さないのではなく
柳の木のように、しなやかに心に保持するというか

何が起こっても
心の中にある「それ」が消えることなくしっかりあることを
自分の親しみやすい方法でイメージし続けるわけです。

イメージとは
画像の場合もあるし、音の場合もあるし、雰囲気、感じ、感覚であったりします。

消えないとイメージしたら、消えません。

意外と、イメージの力は大きいです。


心の中にスタジオを作る


こうして、音楽が、「おり」てくるときに限って
手の離せない仕事中とか、
風呂に入っていたりトイレに入っていたりして、メモも録音もできない。

口笛が吹ける状況なら、口笛を何度も吹きますが、
以前、露天風呂で口笛を吹きまくって、
変な人と思われたこともあって・・・(汗)

こういうとき、
メモもなく、レコーダーもないから
心の「イメージの力」を使うのです。

心の中に、自分の得意な楽器を創造します。
私ならオカリナ。
音を鳴らしませんが、心の中で指を動かすことくらいできます。
そして
忘れないように心の中で繰り返し繰り返し歌ったり
演奏したりします。
つまり、オカリナにせよ、ギターにせよ、心の中なら自由にスタジオを作れるので
必要なものを心の中にどんどん創造して、何重奏ものハーモニーもできるようにして
イメージのスタジオで思いっきりリハをやるわけです。

また、
「おり」てきた時の、感情の鮮度が落ちないように過ごすことも大切です。

こういう時は、人とのトラブルは避けたいです。
悩み、怒り、腹立ち、イライラは特によろしくありません。

できるだけ、自分をやわらかくして、穏やかに過ごしたいです。
そして、
自由の身の上になったら、
私は一目散にオカリナとレコーダーを取り出して演奏して録音します。

楽譜が書けるなら
紙を出して楽譜に記録できるのですが・・・・
昔のモーツアルトやバッハなどは、まるで手紙を書くように楽譜を書いたんですね。
ああなりたいのですが・・・・
現在独学中です。

今は、MTR(マルチトラックレコーダー)に頼って、ハーモニーを録音しています。

今回作った動画も
最近「おり」てきました。
もちろん、以前何かで聴いたフレーズが含まれているかもしれません。
夢と一緒で、意識・無意識のいろいろなものがミックスされて
「降り」てくるのだと思います。

こういうことが起こったら
これからも、できるだけ記録に残したいと思います。

またときどき、即興演奏を作ると思いますので
よろしくお願いします。


私のオリジナルオカリナ独奏曲
「時の旅人」演奏動画です。
https://youtu.be/JenpFib9hIQ

時の旅人1.jpg






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