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「ここにいる。そして いる。」 [癒しのエッセイ]

こんにちは、
オカリナぽーるです。


私はよく「特別養護老人ホーム」に招かれて

オカリナを吹きに行きます。


コンサートという形式ばった形のものではなくって

リビングルームでもん名でお茶を飲んだり

世間話しながら

オカリナを吹く・・・・



こんなラフな形のオカリナ会です。


そこである日
オカリナを吹いた時の話です。


みんなが楽しく手拍子をしてくれる中で、
一人のご婦人は
下を向いてさみしそうにされていました。

「どうされましたか」と聞くと

「どうせ
こんなとこに入ったから

うちなんか
世間の何の役にも立たないから・・・

迷惑かけるばっかりだから・・・」

こう言って涙を流されました。


「どうしてそう思われるのですか」

さらにこう聞くと、


「怒られるばっかり。

侮られるばっかり」


と。



この施設に入って、

このご婦人はどれだけつらい気持ちでいたんでしょうか。


ごはんも自分で食べられないから、介護を受ける。

おトイレも自分でできないから、介護を受ける。


今までできていたことが

何もかもできなくなって・・・



私も涙が流れました。


「でもね、

一緒にオカリナ聴いてくれたら

私もうれしいですよ。」


この一言に
ご婦人は

オカリナの音に手拍子を下さり、

歌詞カードもないのにみごとに唱歌を歌ってくださりました。

リビングルームは
このご婦人の歌に先導されて
大合唱です。


オカリナ会が終わってご婦人に
「良かったですね」

というと、

ご婦人は
笑顔で
「よかった。

わたしは

ここにいても、

こうして

いるんやな。

いるんやな。」

とおっしゃってました。

何となく
ニュアンスが伝わってくる言葉ですが、

この言葉の意味について、

帰ってからじっくり考えてみました。

次回はそのことについてお話します。

頂いた言葉のプレゼントって? [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

わたしはよく
いろいろな福祉施設へ
オカリナ演奏のボランティアで訪問します。

歌が好きでオルゴールに詳しい妻と一緒に
オカリナ・歌・オルゴールのコラボレーションで
訪問したこともしばしばでした。



しかし、
癒しの音楽を届けに行ったはずなのに、

かえって私の方が癒されて
素晴らしい言葉のプレゼントをもらってくることが多いのです。

本当に
「癒し、癒され」という経験をさせて頂きました。


きょう紹介する言葉は
そんな
いただいた言葉のプレゼントの一つです。


「生きていてよかった事


私は自分で動けない体になってしまった。

情けないと思った。

生きていたくないと思った事が何度もある。

でも
生きていてよかった。

こんな年まで生きていて、本当に良かった。

だって、あなたに会えたんだもの。

明日も私はそう思うよ。
明後日もそう思うよ。
だってあなたに会えたんだもの。

今日まで生きてきてよかったねって
私は言い続けるでしょう。

人間にできる素晴らしい事はなんだい?

それは感謝することだよ。

ほんの少しの事を見つけては いっぱい感謝する。

そんな楽しい事が
人間にはできるんだよ。

人間に生まれてきた楽しみだよ。

私にはその楽しみがあるから、
いっぱい楽しもうと思うんだよ。」

こう言って
窓の外に見えるお地蔵さんに手を合わせられる
その方の姿に

私はものすごい癒しと気付きをいただきました。


この言葉は
広めないではいられない。

こう思って、
ここにシェアします。


明日から、
「特別養護老人ホーム」での
オカリナ会での出来事について

ものすごくためになるお話をします。

楽しみにしてください。

人は最後まで成長する 最後まで知る 最後まで気づく [癒しのエッセイ]

こんにちは、オカリナぽーるです。


きのうのお話で

歳をとると

できないことができなくなることについて

考えてみました。


たしかに

歩けていたのに歩けなくなる、

自分で食べられていたのに、人の介助がないと食べられなくなる・・・



しかし、

どんなに体が衰えても

考えること

感じること

これはだれにでもいつも在りつづけると思うんです。



知らないことを知りたい、

気づかなかったことを気づきたい、

まだまだ育ちたい、向上したい、

こうした希望や夢は何歳であっても、

そう


90才、100歳になってもあると思います。


「生涯向上

生涯探究」

こんな書を書かれた方もいました。


人間の「欲求」について説明したマズローという学者も

いろいろな欲求のうちの「知的欲求」について、

「知的欲求に年齢制限はない」

と言っています。



そうはいうものの、

この

「知的」の部分さえ衰えていくかもしれません。


お父さん、お母さんが

「アルツハイマー」などの

「認知症」になったときに

家族は泣きます。



「去年までしっかりしていたお父さんが

こんな姿になるなんて」


しかし、そんな状況であっても


成長の可能性はある。

気付きの可能性はある。

最後の最後まである。






あるんです。







体の自由は衰えて、

体で経験する夢をあきらめなくてはならなくても、

頭脳の自由は衰えて、思考する力も記憶する力も衰えても

「たましいの自由」は奪われることはないんです。

「たましいの夢」は求め続けるんです。





私は

数年前に他界した父からも

また福祉の仕事の中でお付き合いしてきた認知症の方からも、

その真実を経験しました。



そのお話は長くなるので

またいつかしたいと思います。


わたしはよく

「特別養護老人ホーム」と言われる施設に

オカリナを吹きに行きます。


この施設は

ふつうの老人ホームではなく、

ふつうに家で暮らせないほどお体の不自由なお年寄り

家族だけではとても介護できないお年寄りが

入所して暮らしているところです。


そこで私は

オカリナの音色を届けるだけではなく

本当にいろんな素晴らしいプレゼントをもらってきます。



プレゼントをしてくるんじゃないんです。

もらってくるんです。


プレゼントと言っても、

形のあるものではありません。


次回はそのことについてお話したいと思います。

「いること」の意味 [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。

私は今まで
「誰かの役に立つこと」を人生の目標にしてきたし、

「人より努力して
より役に立つ人間になること」
を生きがいにしてきました。


しかし、
努力が報われず
何の役にも立たないと人から言われた時
私は今までなんのために努力してきたんだろうか・・・

そのことを想像すると怖くて・・・


そんなとき
ある日オカリナ演奏で訪れた特別養護老人ホームで
あるご婦人がこんなことをおっしゃりました。


「ここにいても、

いるんやな。

いるんやな。」

この言葉の中に
「いる」ことの意味が深く含まれていると気づかされました。


このご婦人は
これまでできていたいろいろなことが
できなくなり、

「特別養護老人ホーム」に入所してからは
世話をしてもらうばかりの生活になり
きっと自分の中で
こうつぶやいていた毎日だったと思います。
「なぜ生きる? 生きていたくない? 
いつまで生きなければならないのだろう?
そう思ってしまう。」


そんなご婦人が言われた一言
「わたしは
いる。」

この言葉には衝撃を受けました。



オカリナ演奏の席で
うつむいておられたこのご婦人に、

演奏を中断して少し話してみると
こう言われます。

「だあれもうちのこと、会いたがらへん。
 うちがいても喜んでくれる人、
 だあれもおらへん。
 生きていてもしょうがないけど・・・・
 ここでお世話になって・・・
 寿命が来たら静かにあっちに行くわ・・・」

よくお話を聞くと

若いころは、地域のために多くの働きをしてこられた方でした。
「認知症」になり
特別養護老人ホームにに入所して、家族の面会もほとんどなくなりました。

「面白くないんですか?」

「そうやな・・・おもろない・・・・」


はたして
「誰かに必要とされているかどうか」
が生きる面白さなのかどうか?
考えました。



私事ですが、
私は幼いころから
「勉強して、立派な仕事について、世の中に役に立つ者になれ」
といわれ続けながら成長しました。
そして
大人になって、ふたを開けてみれば
世の中の役に立つどころか、人に迷惑をかけるばかり。
私の目標は
「世の中に役に立つ」のではなく
「少なくとも人に迷惑をかけない」
になってきました。

しかし
どうしても人に迷惑をかけざるを得ない状況にもなりました。
どうしようか・・・・

しかし
この老人ホームでオカリナを吹いた日、
何かが吹っ切れました。


オカリナとともに心行くまで合唱して
「ここにいても、
いるんやな。
いるんやな。」
と笑顔で言われた
先ほどのご婦人のお言葉です。

これまで私が、自分の価値として思っていたこと
「必要とされている」
「役に立つ」
「何かができる」
「何かの価値を生み出すことができる」
「人に迷惑をかけずに暮らせる」

それが本当に自分の価値なのか?
人の価値なのか?

赤ちゃんはどうでしょう?
何ができる? 
笑ったり泣いたりできますが、
働いてお金を稼げるでしょうか?

本当の価値は
「何かができる」「何かの役に立つ」「必要とされている」
のではなくて
そこにいること自体
本当の 
絶対に否定されることのありえない
価値だっていう
そんなあたりまえのことにさえ気づけなかった
そんな私が恥ずかしく思えました。

ご婦人が言われた
「いるんやな」
という意味。

それは
「わたしが 
いま
ここに
いること自体
本当に
大切で 価値のあることです。」
ということだったんですね。


このことに気づくのと気づかないのとで
生き方が変わります。

すごす時間の「質」が変わります。


時間の質が変わる関わらないかで
人生が変わります。

次回に続きます。

人生の完成へ よーそろー [癒しのエッセイ]

こんにちは、

オカリナぽーるです。



きのうは敬老会があって

そこで敬老の日に寄せてオカリナを吹いてきました。


オカリナを吹き終わって

一人の方が

敬老の日についてこんなメッセージをお話されました。

とても心が打たれたのでこの場でシェアします。


「歳をとると

いろんなことができなくなり、

悲しくなりますね。


でも、こう考えてみました。



私たちは生まれてくる時

何もできませんでした。

神様のところからやってきて

お母さんのおなかからおぎゃあと生れた。

神様からいのちという宝物をいただいて

この宝物を預かって

1歳になって

3歳になって

20歳になって

一つ一つ神様からできる力をもらいました。


できることが増えてきて

役割も多くなって

いろんなことをしてきた。





そして

歳を取って

これまでできていたことが

できなくなってきましたが、



それを私はつい先日まで悲しいと思っていました。


しかし、気づきました。


歳をとって

できていたことができなくなるのは

神様に預けてもらった力をお返ししてるんだってこと。


できなくなったのは

もうしなくてもいいんだよってこと。


一つ一つ

神様にお返しして行って


そしてある日、

いのちをお返しするとき、

神様のところに帰って行って

こんなことあったよ、こんなうれしい経験したよって

神様の胸の中で泣いて

私の人生は完成するんだなってこと。


こんな当たり前のことに気づきました。」


感動しました。



歳をとるということの意味

歳をとって体が不自由になることの意味を

こうとらえなおせるということは

大きな学びでした。




しかし、

私にはもう一つ意見があります。



歳をとるということは

できなかったことができなくなる、

能力が衰えていくとみんなは思うかもしれませんが


全く反対のこともあると

私は思います。



歳をとるからこそ

パワーアップする力があります。

歳をとるからこそ、もっと欲しいと思う欲求があります。

能力が衰えるから

もっと研ぎ澄まされる第6の力があります。


そのことを

私はいろいろな方とのお付き合いの中で経験してきました。


このことについて

次回はお話したいと思います。

夢を見る人は 夢を届けている人なんです [癒しのエッセイ]

オカリナぽーるです。


私はよく、ロマンチストと言われます。


その「ロマンチスト」と言われる内容には
二つの意味があります

一つは、きれいなものが好きってこと。

でも時々こんな意味で言われます。

かないそうもない夢ばかり追いかけている、
空想家。


たしかに
どっちも、言われるとおりだと思います。


でも
一つ不正解があります。

かないっこない夢、空想の世界。


じつは
かないっこのない夢を見ているという今現在が
夢がかなっていると言ったら

どう思いますか?
バカらしいと思いますか?





実はね、

夢を見る人は、

 夢を届ける人です。





私たちは

何歳になっても、

状況がどのように変わろうとも

夢を追い求めています。


夢なんかないよと言っている人も

実は夢を追い求めていることに

気が付くでしょう。



あなたの夢

あなたの希望

それはあなたが知っています。

ほんとうのあなたが知っているんです。





そんなの知らないよと言っても

ほんとうは知っているんですよ。




時が訪れたら

ほんとうのあなたの

ほんとうの声を聴くでしょう。

その時は

いまかもしれません。





そして夢を追い求め、

夢を見る人は


誰かに夢を届けたいと思っています。





そして気づかなくても、

夢を届けているのです。



ほんとうです。








何にもしてないよ

何にも出来てないよ

こんな私に何ができるんだよ!




そう思っている真っ最中も

あなたは

誰かに必ず夢を届けているんです。






不思議なことです。

その不思議なことが今も起こっているんです。


もしかしたら

その真実を

私はお伝えしたいから

オカリナを吹き続けてきたのかもしれません。





オカリナじゃなくてもいいんです。

あなたのしたいこと、

やってみたいこと、

好きなことでいいんです。


ちっちゃい夢でもいいんです。


いま

ゆめ

かなえようよ。







「夢を見る人は、

  夢を届ける人である」




これからもお楽しみください。

朝のスープの香りに [詩をつくりました。]

お早うございます!

オカリナぽーるです。

つまり

朝にこの記事書いてるんです(笑)


朝ごはんに

カップスープのコーンポタージュを飲んでいました。

香ばしい香りにしばらく幸せに浸っていたのですが、

その気分に合わせるようにメロディーが降りてきて
ついオカリナを吹きました。

吹き終わって
こんな詩が浮かんできたから書き留めてみました。


コーンポタージュ

コーンポタージュよ コーンポタージュ
湯気の中においしそうな香りをたてて 君は何を思う

いったいどれほど時間がたったのだろう
君は広い広い畑に落ちた種だったね
どんな草になるのかな・・・
君は心配そうだったね

やがて芽を出し葉をつけて
きれいな花が咲いて
たくさんの実をつけた。
 
君のつけた身はどんどん増えて
広い広い畑にいっぱいになった。
お空の青や 風の香りが気持ち良かったね。

ある時
農家さんがやってきて
きみは刈り取られて袋に入れられた。
これからどうなっていくのだろう
突然のことに君の心は心配でいっぱいだったね。


それから先のことは覚えていない。


そう・・・工場の人が君を機械にかけて
君の姿は全く変わってしまった。
パックに入れられてスーパーマーケットで売られた君には
「コーンポタージュスープ」という名前が付いていた。


ある時
仕事帰りのおじさんがスーパーにやってきて、
君を買って家に帰った。

家には病気の奥さんがいた

おじさんは君を鍋に入れてあたため
カップに入れて奥さんに言った。

「飲んでごらん、おいしいよ」

おいしいね
心いっぱいそう微笑んで
病気の奥さんはスープを飲んだ。

コーンポタージュよ
コーンポタージュ
もうカップの中には
君の姿はないけれど、

おいしかったねとほほ笑む奥さんの笑顔があった。
この笑顔が光になって空に広がって飛んで行った。
そして奥さんは元気になって
君はお空になった。

どこからも見えるお空になって
いつも奥さんを照らすようになった。

だから私はもう君を忘れない。

やがて私は年老いて
きみがとうもろこしだったことも
「コーンポタージュ」だったことも
そのうち私は忘れるかもしれない。

でも私は君をいつまでも忘れない。
おいしいねという気持ちの中に
嬉しいねという気持ちの中に
いつも君がいるから、
わたしはいつまでも忘れない


小さな手になじむオカリナ [オカリナ豆知識]

こんにちは
オカリナぽーるです。

今日は、
子どもにはじめて買ってあげるオカリナのお話の続きです。


オカリナの指使いは、リコーダーと似ています。
小学校中学年で、みんなリコーダーを習うと思いますが、

リコーダーを習い始めたころに

リコーダーと同じような音域のオカリナを買ってあげることがいいと思います。


つまり、「ド」ではじまるC管です。

一般的には、
「アルトC」という音域のオカリナが
ビギナーには扱いやすくていいと言われています。

でもですね、
子供さんは手が小さいので、
「アルトC」は落としてしまったり

少し大きいので吹きにくいかもしれません。


でも
同じ「Ⅽ調(ハ調)」でも
もう一回り音の高い物があります。

オカリナの中で一番高い音が出る
「ソプラノC」です。

「アルトⅭ」がハトなら、
「ソプラノC」は、鳥にたとえたらヒバリやウグイスです。

もしかしたら、音が高くて、うるさいかもしれません。

私は、実は最初に買ったオカリナが、
ソプラノC管でした。

小学校4年の時で、
うれしくて、当時に人気のあったアニメソングを吹きまくっていました。

キンキンとうるさいので、母からしょっちゅう怒られていましたが、

子供の成長を大切にされる優しいあなたは、叱らないですよね!

子供にオカリナをプレゼントしたい人へ [オカリナ豆知識]

よく、オカリナコンサートのあとで
こんな相談をされます。

「子どもに買ってあげたいのですが、どんなオカリナがいいですか?」


私はためらわず答えます。

「少し高くても
いい音の出る本物を買ってあげてください」

と。

オカリナは
頑張っていい音を出す楽器ではありません。
楽器との出会いと言っても過言ではありません。

私も、子どものころに
最初に出会ったオカリナが
本物だったので
その音に心を奪われました。

もし最初に出会ったオカリナが
おもちゃ屋さんなどで安くで売ってる
いい音の出ないものだったら、
子どもは
いい音を出そうと努力するかもしれません。
しかし、努力してもいい音が出ないので
「努力がむくわれない」
という気持ちになってしまうのは
とても悲しいことだと思います。

だから


最初に出会うオカリナの音がいい音であることが
とても大切なんです。


ましてや子供にとっては、感性が研ぎ澄まされているのでなおさらです。


だから、最初から本物を買ってあげるべきだと思いませんか?

よく、
「まだ子供だからおもちゃのオカリナでいい、
うまく吹けるようになれば本物を買ってあげよう」というママがいますが、

ほんとうにオモチャのオカリナでいいんですか?

私だったら
いい音が鳴らないと、
練習する気にもなれませんね。


あの独特の音は、本物でないと体験できません。
いくらオモチャのプラスチックで練習しても、音は変わりません。


小さいころの心にとって、
最初に体験する内容は大切です。

どうか心配せずに本物を買ってあげてくださいね。
もし割れたら
また買ってあげればいいじゃないですか。


どうしても、落とすかもしれないなど心配であれば、
プラスチックでも本物に近い音の出るものが
韓国にあります。

ただ、
これも
オカリナの音に敏感な人にとっては
「気持ち悪い」と感じるかもしれません。


例えば、ピアノの調律師が
私たちには感じないピアノの音の狂いを聴きとって
「このピアノ気持ち悪い」
というように、

ふつうの人には気持ち悪いと感じない微妙な音色も
専門家は敏感に感じますが


子どももまた
私たち大人には感じない微妙なものを感じることがあるので
大人以上に、
本物にこだわりたい。

そう思います。

陶器以外にもオカリナはあるの? [オカリナ豆知識]

こんにちは

オカリナぽーるです。


よくこんな質問されます。

「オカリナは焼き物って聞くけど

落として割れるのはイヤだ。

割れないオカリナってあるんですか?」

って。




オカリナは基本的に、粘土で作って窯で焼いた陶器です。

でも、プラスチックのものも
安く売ってます。

おもちゃ屋さんに行ったら1000円以内であります。

百均でも売ってました。

100円です。


ただ、私に言わせれば、

最初に出会うオカリナの音は

いい音でないといけないんです。



やっぱり、おもちゃ屋さんのプラスチックのオカリナは

オカリナらしい音が体験できないと感じますね。



ただ、プラスチックのオカリナは、
落としても割れないというメリットがあります。

私もプラスチックのオカリナを持っています。

でも、おもちゃ屋さんに売っているのは
音が自分ながらどうしても気持ち悪いので

プラスチックでも、
できるだけ陶器のオカリナに近い音の出る韓国製のオカリナです。



  
また、最近、木のオカリナも出てきまして、
これは陶器のものよりも高価になりますが、
木の楽器特有の響きがあります。

オカリナとは指使いの違う、「コカリナ」という木の笛も人気があります。

コカリナは、長野の工房などで作られています。


ただ、

プラスチックのオカリナも
木のオカリナも

たしかに
このごろ
いい音の出るものが作られてきましたが、

陶器のオカリナとは別の楽器だと思って、
使い分けるようにしています。

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